2015年3月24日火曜日

イタリアサッカー史上最大のスキャンダルが幻になる日

 「全盛期」という言葉は一般的に肯定的な意味を持って使われることが多いが、一方でこれには「凋落が始まった時」の意味が含まれているのを忘れてはいけない。全盛期と評される人や国の周りに目を背けたくなるほどの腐敗が蔓延しているのはどの時代・場所にも通ずることであり、後の衰退が必然的なものであったことを歴史は常に証明してきた。
 イタリア・サッカーの全盛期は間違いなく2000年代の前半にあった。2003年にはチャンピオンズ・リーグ決勝でミラノとトリノの巨人が相まみえ、世界中の人たちがイタリアでサッカーをすることを夢に見ていた。そして2006年、ドイツで行われたワールド・カップをイタリア代表が制しイタリア・サッカーがその栄華の絶頂を極めた直後、栄光の象徴であったユヴェントスFCの崩壊が不可避のものとなった。


カルチョーポリとは

 「サッカーcalcio」と「政治的癒着tangentopoli」を組み合わせた造語カルチョーポリCalciopoliの名前で知られるイタリア・サッカー史上最大のスキャンダル、この事件が明るみに出るキッカケは全く異なる場所にあった。ユヴェントスの元チームドクターであったリッカルド・アグリコラ氏が90年代半ばにドーピング違反に関与していたのではないかと疑われたのが事の発端である。この事件の操作が始まった折に、ドーピング以外にもユヴェントス幹部が不正を働いていたのではないかという疑惑が浮上した。次の六項目がその疑惑の具体的な内容であり、これが現在、広義の「カルチョーポリ」に含まれる。
  1. セリエAとチャンピオンズ・リーグにおける審判の斡旋
  2. ナショナルチーム監督に対し特定の選手の代表招集を依頼
  3. 審判をロッカールームに監禁
  4. ヴァチカン銀行への裏預金
  5. ユヴェントスの選手たちのドーピングテストを免除する裏工作
  6. TV番組プロデューサーに対しリプレイ動画の編集を依頼

 なお、「八百長事件」と呼ばれていることから多くの人が「ユヴェントス(モッジ)が審判を買収した事件」とカルチョーポリを認識しているようであるが、それは少し誤解をしている。確かにモッジがとある特定の審判に高級車を贈ったことが話された電話の録音記録も残っているが、2006年当時の情報から正しく説明するに、カルチョーポリとは「ユヴェントス(モッジ)が自分好みの審判を斡旋した事件」であることを最初に明らかにしておきたい。また、「広義のカルチョーポリ」とは対称的に、上記の1に該当するこの審判斡旋行為を「狭義のカルチョーポリ」としてここでは定義する。一般的に「カルチョーポリ」として議論されるのはこちらの狭義の方である。
 そしてもう一つ、審判の選出に口出しをすることは当時は違反行為ではなく、どのチームも同様の事を行っていたことも声を大にして言っておかなくてはならない。モッジにかけられた疑惑は、"あまりにも過剰に"審判と親密な関係にあったこと、なのである。

 国内三大スポーツ紙の一つガゼッタ・デッロ・スポルトは、これら一連の事件が噂され始めるや否や、疑惑を確信に変える記事を次々と世に送った。このガゼッタ・デッロ・スポルト、手段を選ばない取材においては他の追随を許さない。最近で言えば2014年のワールド・カップ、イタリア代表の非公開練習を上空からヘリコプターで撮影し、背水の陣に挑むチームの秘策を全世界に暴露した。
 2006年のガゼッタは、ユヴェントス最高幹部ルチアーノ・モッジとアントニオ・ジラウドの電話を盗聴しその録音記録を文字に起こし公開、この二人がイタリア・サッカー協会関係者に圧力をかけ審判の選出を操作していたことを報道した。
 2005-2006シーズンが終了後にこの両名は辞任、審判選出の不正操作に関与したとされる協会幹部も次々と表舞台から姿を消し、ワールド・カップと並行して調査・略式裁判が行われた。三つの裁判を経て、ユヴェントス、ACミラン、フィオレンティーナ、ラツィオ、レッジーナに対し、新シーズンにおける勝ち点の剥奪などの様々な処分が下された。中でも最も重罪となったのは、事件の主犯であったモッジを擁するユヴェントス、唯一彼らに下部リーグへの降格が言い渡された他、過去二シーズン分の優勝の取り消しが決まった。


カルチョーポリがユヴェントスに与えた影響
 2006年当時、ユヴェントスは世界有数のスター軍団であった。ライバルチームのエースを高額な移籍金を持ってチームに招聘する様はビッグクラブそのものであり、イタリアのみならず世界中にそのプレゼンスを発揮していた。ユヴェントスの白黒 bianconero のユニフォームに袖を通すことはサッカー選手にとっての最高のステータスであった。
 しかし、二部リーグに降格したユヴェントスはその全てを失った。スター選手たちはユヴェントスを離れることを望み、一方でユヴェントス自身も降格したことによる広告スポンサー料や賞金の大幅な減少から彼らの給料を支払うことが難しくなった。世界最高のサッカー選手に贈られる称号「バロンドール」を後に獲得するファビオ・カンナヴァーロを始め、パトリック・ヴィエラ、エメルソン、ジャンルーカ・ザンブロッタ、そしてズラタン・イブラヒモビッチらがチームを去っていった。
 その後のユヴェントスは、残留することを望んだ主将アレッサンドロ・デル・ピエーロやパヴェル・ネドヴェド、ジャルイージ・ブッフォンらの尽力もあり一年でセリエAに復帰、その翌年にはチャンピオンズ・リーグにも出場し見事復活を遂げた。
 ように思えたのも束の間、ベテランの域に達したデル・ピエーロらがなかなか活躍できなくなったのを境に、付け焼き刃的なクラブ経営が裏目に出て低迷し、再び国際的なプレゼンスとステータスを失った。
 経営メンバーの刷新とコンテ監督のサプライズ招聘が奏功し現在ではかつての輝きを取り戻しつつあるユヴェントスだが、9年前の降格によるダメージは甚大である。たらればの議論が何も生まないのを理解した前提で話をするが、もしもカルチョーポリがなければユヴェントスは今頃バルセロナやレアル・マドリード、バイエルン・ミュンヘンと肩を並べ、ヨーロッパの頂点に立っていたかもしれないのだから。



カルチョーポリ裁判の展開

 一般的に西洋由来の裁判は、Presumption of Innocence、いわゆる「推定無罪の原則」「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」という考えを基に進められ、あらゆる人も有罪の立証なしに罰を受けることはない。しかし、今回の一連のカルチョーポリの裁判は一般的な裁判と異なる「スポーツ仲裁裁判」、この推定無罪の原則も適応されていなかった。

スポーツ仲裁裁判とは
 「スポーツのことはスポーツの中で解決する」という目的の下で1984年、国際オリンピック委員会によってスポーツ仲裁裁判所が設立された。イタリアのスポーツ仲裁裁判所はイタリア五輪委員会が運営を行っている。カルチョーポリやサッカーに限らずスポーツ全般に及ぶ様々な案件を扱っており、ユヴェントスは2012年にカルチョーポリとは別件でこの裁判所と一騒動を起こした。
 カルチョーポリの他にもイタリアサッカー界には多くの八百長事件が存在する。2012年には八百長事件に関与した疑いでドメニコ・クリッシートが欧州選手権のイタリア代表からの途中離脱を余儀なくされた「カルチョスコメッセ Calcioscommesse」事件が起きた。
 こちらは「サッカーcalcio」と「賭博scommessa」を合わせた造語でカルチョーポリよりも闇は深い。2000年代半ばから違法賭博グループが組織ぐるみで審判のみならず選手をも買収、かなり直接的に試合を操作していた。現在でも騒動が続いており、クリッシート以外にも元ACミランMFジェンナーロ・ガットゥーゾや現ユヴェントスDFレオナルド・ボヌッチらにも嫌疑がかけられた。最近、耳にするイタリアサッカー絡みの「八百長事件」の大半はこちらのカルチョスコメッセの方だ。
 カルチョスコメッセが明るみに出た当時ユヴェントスを率いていた監督コンテは、前任のシエナ監督時代の2011年に行われたノヴァーラ戦とアルビノレッフェ戦との試合に際し、ドローで試合を終わらせるように指示された、つまり八百長が行われていることを知っていながら「申告義務を怠った」罪でスポーツ仲裁裁判所から10ヶ月の資格停止処分が下された。この裁判においてコンテが八百長の存在を知っていたとする証拠は、嘘か本当かも分からないシエナOB選手の証言しか存在しなかった。しかし、コンテには有罪判決が下されたのだ。ユヴェントスはこれを不服とし、処分の撤回を要請した。のちに10ヶ月が4ヶ月に短縮されたのだが、ユヴェントスは2012-2013シーズンを12月まで、監督不在の状態で戦うことを余儀なくされた。
 なお、上述のボヌッチはこの裁判において「証拠不十分」の無罪判決を獲得している。彼にもコンテ同様に申告不履行の疑いがあったのだが、証言に挙げられた「八百長があることを伝えた日」にナショナルチームの合宿に参加していたことが明らかになり、物理的に八百長に関与することが不可能であることが立証され、無罪となった。つまり、一度起訴されてしまったスポーツ仲裁裁判において無罪を獲得するのは、これほどの偶然が必要であるのだ。

 5年の活動停止処分と罰金が科せられたルチアーノ・モッジの裁判もこのスポーツ仲裁裁判だ。検察側から十分な証拠が提示されていなかったにも関わらず、ユヴェントスとモッジらは重罪を受けた。もちろん、ACミランやラツィオ、フィオレンティーナらも同様にこの裁判の被害者である。ユヴェントスは判決が下された当初からこの裁判のシナリオと結果を不当のものと主張し、刑事裁判の実施を訴えた。


カルチョーポリの新展開
 カルチョーポリが再び動き始めるのは、2007年4月のことである。モッジや審判協会幹部、またいくつかの審判がスイスやリヒテンシュタインで作られたSIMカードを使い秘密裏に何らかの話し合いをしていたのではないかという記事が、イタリア紙リプッブリカによって書かれた。
 これを受けて同年6月、カルチョーポリの中心人物の一人で、当該時期に審判選出業務を行っていたパオロ・ベルガモが、モッジから2枚のSIMカードを送られ、一枚を自分が保有、もう一枚をイタリアサッカー審判協会会長パイレットに渡し、彼とのプライベートなやりとりで使用していたことを明かした。
 先の裁判ではこのSIMカードに関する議論は全くされていなかった。このことからもユヴェントスらに対する制裁が決まった最初の裁判がいかに杜撰なものであったのかを想像できるが、兎にも角にも裁判のやり直しの必要性がこの頃から声高に主張され始めた。


インテルとカルチョーポリ
 同2007年のイタリア紙スタンパの報道で、2006年の裁判に名前が挙がらず、ライバルチームが総じて没落していく中で「一人勝ち」をしたインテルナツィオナーレ・ミラノのカルチョーポリへの関与が疑われた。
 00年代後半は一人勝ちのインテルに対し多方面から疑惑が持ちかけられた。カルチョーポリをここまで大きくさせた新聞紙ガゼッタ・デッロ・スポルトはその本社をミラノに構えており、報道もインテル寄りのスポーツ紙として知られているが、実際にここで役員を務めるカルロ・ブオーラ氏はインテル親会社ピレッリのゼネラル・マネージャーであり、さらにはカルチョーポリにおいて多くの録音電話記録を証拠として提供した会社TIM(テレコム・イタリア)の副社長の職にも就いている。
 2006年、カルチョーポリが発覚したことで辞任したACミラン出身のアンドレア・ガッリアーニに代わり、イタリア・サッカー協会会長に就いたのは、インテル畑のグイド・ロッシであった。グイド・ロッシは就任早々、ユヴェントスのセリエBへの降格を決定し、また同年テレコム・イタリアの社長就任を依頼されこれを快諾した。つまり、今回の一連のカルチョーポリ騒動を大きくしたイタリア・サッカー協会、ガゼッタ・デッロ・スポルト、そしてテレコム・イタリアが全てインテルによって繋がっているのである。
 こうしたことから、インテルであればカルチョーポリへの自身の関与を隠せるのではないか。むしろインテルこそがカルチョーポリの黒幕ではないのだろうか。こうした噂が比較的早い段階から囁かれるようになった。だが、これらはいずれもユヴェントスやACミランといった「負け犬」の遠吠えに過ぎなかった。

 しかし2010年頃から、インテルのカルチョーポリへの関与の噂が現実味を帯びてくる。2011年、イタリア・サッカー協会カルチョーポリ調査部長及びイタリア連邦検察官ステファノ・パラッツィによる調査報告が行われた。ここでは、当時インテル会長モラッティがスポーツ法第一条(スポーツマンシップとそのモラルに関するルール)違反で、同幹部ファッケッティが第六条(八百長に関するルール)違反で名前を挙げられている。
 なお、キエーヴォやカリアリ、リヴォルノなどの会長や幹部もこのリストに名を連ねた一方で、ユヴェントス関係者は誰一人としてここには登場してこない。また、第六条こそが当初のカルチョーポリ議論の争点であったわけだが、ユヴェントスは2006年からの5年に渡る調査によって、第六条に関する自身とモッジ及びジラウドの身の潔白をすでに証明していた。
 この報告が2006年か2007年の時点で行われていれば、おそらくはインテルならびに他のクラブにもユヴェントスやラツィオが受けたのと同様の罰則があったはずだが、時すでに遅し、時効が過ぎていたためインテルらは放免された。


刑事裁判
 インテルのカルチョーポリへの関与が明らかになった2011年、2006年のスポーツ裁判とは一線を画す刑事裁判がナポリ地裁で行われた。調査資料の数も桁違いに増え、モッジが関与していない電話の録音記録までもが証拠として挙げられた。この裁判はモッジに有罪判決を下した。海外SIMカードを使って移籍市場を操作し、息子アレッサンドロ・モッジの経営するサッカー選手代理人会社を不正に利したことが有罪の具体的根拠であった。ここにおいて、審判の斡旋は看過された。要するに、ルチアーノ・モッジは審判の不正操作には関与しておらず、ユヴェントスは正真正銘の無罪であるということが刑事裁判において結論付けられたのである。
 これを受け、ユヴェントスは2006年裁判の結果によって被った上記のような損害の賠償を求め、イタリアサッカー協会に対し4億3000万ユーロの賠償金を請求する民事裁判を始めている。これは現在も係争中の案件だ。
 翌2012年、ナポリで再び刑事裁判が行われ、カルチョーポリに関与し有罪判決を受けていた審判たち全員の無罪が確定した。モッジの有罪がそのままであることから広義のカルチョーポリの存在自体は認めているのだが、モッジが斡旋した審判によって恣意的に試合が動かされたこと、つまり一般的に「カルチョーポリ」と表現されている狭義のカルチョーポリが明白に否定された。



最後に

 2015年3月23日、イタリア最高裁がカルチョーポリの最終判決を下した。
 ユヴェントスFC元ゼネラル・マネージャーのルチアーノ・モッジの「証拠不十分」を根拠とした無罪が確定した。なお、ここで証拠不十分に括弧している理由は言うまでもないだろう。具体的な交渉を含まない電話の盗聴録音記録しか法廷に持ち込まれなかったカルチョーポリ裁判は、その最も始めの段階からすでに証拠不十分であった。推定無罪の原則に則っていればユヴェントスはセリエBに降格されることはおろか、勝ち点を剥奪させられることすらなかったのだ。
 2006年からのこの9年の間に、当初有罪とされていた人たち、ほぼ全員の無罪が確定した。イタリア・サッカー史上最大のスキャンダルが、今、幻のものになろうとしているのだ。一体、誰が、なんのためにこの幻想を作り上げたのであろうか。民事裁判がまだ終わっていない以上、この幻想はこれからもイタリアサッカー界を彷徨うことだろう。数年後、4億3000万ユーロの賠償金を獲得したユヴェントスがカルチョーポリから最大の利益を得たクラブになっていればこれ以上の皮肉はないが、現在そのクラブを指揮する監督マッシミリアーノ・アッレグリ自身が「サッカーは演劇(ショー、spettacolo)に過ぎない」という信念を持っているのがまた面白い。
 カルチョーポリは、カルチョの歴史を描いたスペッタコーロの一幕なのではないだろうか。ユヴェントスは今、無敵の強さでセリエA四連覇に王手をかけているところだ。

2014年12月20日土曜日

アッレグリがイタリア・サッカーに苦言「サッカーは、芸術家が華麗に舞うショーであるべきだ」

 ユヴェントス監督マッシミリアーノ・アッレグリがイタリア紙La Repubblicaに答えたインタビューが大変興味深く、面白いものだったので紹介したい。
 アッレグリはかつてミランを指揮していたとき、戦術的な理由からピルロを先発から外したことがあった。チャンピオンズ・リーグのバルセロナ戦では、ほとんどのフィールドプレイヤーを自陣に残す守備的な試合を展開した。そのため、多くの人がこの監督について、「人よりも戦術を重視する人」、「守備的な監督」といった印象を強くを持っているようだ。しかし、このインタビューに目を通せば、彼がそうしたイメージとは正反対の人であることがよく分かるだろう。



アッレグリさん、あなたは家に帰っても、やはりチームのことをずっと考えているのでしょうか?
「いつもそうしているわけではないよ。映画を見てリラックスをしている時に突然、素晴らしいアイディアが思いつくことはよくある。逆に、試合のビデオを見ながら考えを巡らせることもあるけど、そうした時に限ってダメだ。ぼーっとしながら自分だけの世界に入り込んだときの方が、良いインスピレーションに出会いやすい。」


あなたのことを「オタク」と言う人もいるけど、それはどう?
「それは違うと思う。僕はもっと社交的な人間だしね(笑)一日中じっとしながら解決策を考えることなんて僕には到底できないし、むしろさっきも言った通り、良いインスピレーションを受けるのは何も考えてないときだ。夜中に思いついた策を採用し、練習メニューを変えることもあるよ。実際の僕はデータよりも感覚で生きる人間に近い。」

じゃあ分析みたいなことはしないの?
「少なくとも言えることは、「スタンドから見た方がゲームをより良く理解できる」なんてことは全く馬鹿げているということ。僕たちはコートの中で、状況をよく見つめ、認識しなくてはならない。つまり、サッカーというものは、ただ戦術や戦略といった分析に終始するものではないというのが僕の持論だ。」

サッカーは科学ではないと?
「科学が好きな人は多くいるけど、僕からすればサッカーに科学が入り込む余地はない。サッカーはショーだ。そのショーにおいて活躍するのは、当然、科学者ではなくアーティストだ。サッカーから詩を取り除き、創造性を抑圧したことこそが、イタリアが犯してきた最大の過ちだ。創造性のないサッカーは、コンピューターでギャンブルをするのと同じで、ちっとも面白くない。」

ではあなたは自身の仕事をどう考えている?
「僕がやるのはチームに組織を与え、アイデンティティを生み出し、それらを明らかにすること。攻撃をしているときこそ、守備を意識するように選手たちには言っている。サッカーにおける監督の重要性を軽視することはできないが、監督の仕事というのは選手たちがよりプレイしやすい環境を作ることであり、それ以上でも以下でもない。サッカーとは106×68メートルの芝生の上で、選手が自分の足で走り、選手が自分の足でボールを蹴り、そのボールが予期しない方向に転がるスポーツだ。このスポーツでは、試合前に考えた計画がそのとおりに進むことはありえない。」

試合前の計画は必要ではないと?
「そういうことではない。でも、サッカーはもっと難しい。例えば、テヴェスがボールを持っていたとしよう。彼の左右には彼からのパスを待つ二人の選手がいる。しかしそこにスペースはない。こうしたときは咄嗟のインスピレーションがモノを言う。試合前に立てた計画が全く役に立たない瞬間だ。計画はただの繰り返しに過ぎないからね。もちろん、大まかなプランやプレイのサンプルを多く持つことは非常に有益であり、そこでは僕のミランにおける三年間の経験なども役に立つはずだ。しかし、もしもイブラ、セードルフ、ピルロ、テヴェス、ネスタ、チアゴ・シウヴァ、それからボヌッチのような選手がいるなら、彼らを信頼するに越したことはない。彼ら自身を、そして彼らの創造力を信頼するのだ。」

イタリアのフットボールは衰退しているのだろうか?
「イタリアの試合を見るとき、まず最初に紙にポジションと選手を書き込めば、その後に一時間くらい寝てしまっても何の問題はない。選手たちは、寝る前と全く同じところにいるのだから。しかし、ヨーロッパではそうは行かない。選手たちの動きを理解するのが非常に難しい。加えて、ヨーロッパで活躍する選手たちは、こうした複雑なフィールドでプレイする術を子供の頃から学んでいる。イタリアにはないことだ。」
「僕は、ガレオーネ(ウディネーゼやセリエBのチームなどで指揮をとった監督)のような人に師事することができ幸運だった。彼は確かに監督としてあまり良い成績を残してはいないかもしれないけど、少なくとも僕に、さっき話したようなフットボールの楽しさと難しさを教えてくれた。イタリアの子どもたちが通うサッカースクールは今は養鶏場のようになっている。イタリアのユース代表は、最もシステムに合う選手を呼ぶ傾向にあるが、一方のドイツはまず優れた選手を召集してから、彼らをどのようにプレイさせるかを考えるのが普通だ。違いはここにある。サッカーは変わったんだ。バスケットボールのようにね。」

バスケットボール?
「かつて、ダン・ピーターソン(イタリア・バスケットボール・リーグSerie A1のチームなどを指揮した監督)の1-3-1ディフェンスがバスケットボール界を席巻したことがある。この戦い方を誰も知らなかったから、ピーターソンのチームは無敵だった。それが細かく研究されると、ボールを持つ時間を増やし、そして鍵となる選手を少しでも自由にし、最後は彼に託すことが有効になった。バスケットボールは戦術のスポーツから、個人の力に頼るスポーツに変わったのだ。同様に、サッキはサッカーに革命を起こし、彼によってサッカーは次の段階へとアップデートされた。サッキの前の時代は、映像を見て分析をすることが大事だった。三年という月日をかけてゼーマンの4-3-3を研究したこともあった。しかし、サッキを境に選手たちの才能に頼ることが、サッカーでは重要になった。もはや戦術でサプライズを起こすことはできないのだ。」

新しいサッカーで大切なことはなんだろう?
「常にアイディアを巡らせながらプレイすることだ。そのためにはたくさん走らなくてはならない。」

これは、イタリアが失っているヨーロッパのメンタリティーなのだろうか?
「イタリアでは、すべてを単純にしてサッカーをしようという傾向があるが、これが近年では裏目に出ている。ヨーロッパのサッカーはよりダイナミックで、僕達はそれに屈してきた。僕たちは敵からよく学ばないといけない。創造性、プレイメイカーの役割をまた復活させないといけない。サッキによって、フットボールの方法論は変わった。あまりにも計画的で、分析を細かくするようなサッカーはもう時代遅れなんだ。」

外国の選手たちはなぜあれほど走るのだろう?
「単純にスペースがあるからだろう。イタリアでこうした試合ができるのは、拮抗したチーム同士の試合のときだけだ。この前のユヴェントス対ローマとかね。あの試合は美しかった。タフで、技術的な見どころが満載だった。しかし他の試合では、どちらかが攻め、どちらかが守るというような試合が横行している。」

こうした状況に危機感を持ったチームはイタリアにある?
「モンテッラのフィオレンティーナかな。」

ユーヴェにはこの多様性はある?
「僕たちはよく働き、よく組織され、そして自己犠牲をすることも厭わない。ユヴェントスは非常に機械的で、それこそがこのチームの強さの秘訣であり、イタリアにおいて勝利を確実なものにしてきた。しかし、これから次のステップへ進むためにはなにか新しいもの、つまりは創造性のある個人の力が必要だ。」

選手の補強ということ?
「必ずしもそういうわけではない。今の選手たちだけで、次のステップへ行くことは十分に可能だ。僕のチームにいる選手たちはもっと自信を持っていい。ユヴェントスは素晴らしい選手たちで溢れているのに、彼ら自身は自分の強さに気付いてないようだ。僕たちはまだ100パーセントの力を出せていない。僕は選手たちにこのままのパフォーマンスを続けたら許さないと、常日頃から伝えている。彼らの潜在能力は計り知れないものだ。チャンピオンズ・リーグを勝ち進むことだって難しくないはずなんだ。」

あなたは厳しい監督?
「「厳しい」が「怒鳴る」ということを意味しているのなら、僕は違う。僕は、怒鳴り叫ぶことがなにかを変えるとは微塵も思ってない。恐れは何も生まない。しかるべき方法で、落ち着いて話された言葉こそが、物事を変える力を持っている。」

チャンピオンズ・リーグの抽選結果についてはどう思う?
「バルセロナみたいなチームが来なくて良かったよ(笑)もちろん、ドルトムントを低く評価するつもりはない。確かに彼らは今苦しんでいるようだけど、彼らには確実な力がある。二月になればそれは分かるだろう。でも、ユヴェントスはチャンピオンズ・リーグで大きな仕事をするつもりだ。」

2014年8月25日月曜日

イタリアの家族経営の伝統とカルチョ

 イタリアの産業には「家族」が存在する。地中海の中心に位置するイタリア半島は、ラグーナやアルプス山脈という天然の要塞と古代ローマの遺産を背景に中世の時代に西洋最大の商業都市となっていたが、その頃の、弟が船に乗ってギリシア・エジプト・アジアの産品を持ち帰り、家で留守番をする兄がその産品を売り利益を生み出す形態が、後のメディチ家に発展していった。彼らの商売は徹底的な家族経営によって成り立っていた。家族という最も信頼の置ける人を身内に固め、他の家族と取引をするのがイタリアの伝統的な生き方だ。一方でオランダを始め、イギリスやフランス、そしてアメリカでは、近代に入り、国家という絶対的なバックアップを持って、家族を超えたグローバルな経営を実現させていった。
 イタリアの家族経営は現在でも色濃く残っている。イタリアのあらゆる産業の核は未だに家族のままである。
 
 以前、私はフィレンツェの服飾業界の記事を読んだ。
 (変貌するイタリアのファッション勢力図
 フィレンツェは、ミラノ・コレクションと並ぶピッティ・イマジーネ・ウォモというファッション展が年に2回開かれるほどの大ファッション都市だ。最新のトレンドを生み出すミラノ・コレクションとは対称的に、このピッティは時代に流されないクラシックな伝統を重んじるファッションに定評があり、そこで作られる服は熟練職人の手作り、車が買えるような値段のスーツも珍しくない。この職人の技術は親から子へと受け継がれ、余所者がそこに入ることは自分の家族を捨てて彼らの家族に加わることを意味し、簡単なものではない。そうして、規模は小さいながらも質の高い品物を生み出す産業がイタリアでは多分野において数百年に渡り継承されてきた。
 しかし、この産業は今や斜陽の時期を迎えている。大量消費・大量生産の時代にあって、彼らはユニクロやH&Mに押されており、顧客であった高級階層すらもルイ・ヴィトンやアルフレッド・ダンヒルなどに流れている。一着のスーツを作るのに半年の時間をかけて、胸囲や足の長さだけでなく性格や趣味・趣向をも採寸するイタリア産業はマニア向けのものとしか見なされなくなってしまったのだ(もちろん、その中でもアルマーニやドルチェ&ガッバーナのように高級ブランドとして成功を収めた例もたくさんあるが)。
 私が読んだその記事には、以下のような記述がある。
「イタリアの問題はファミリーです。創業者が素晴らしいブランドを作ってもその後成長しないのは、企業を継ぐ2代目以後がほかの企業で修行を積んだり、海外で勉強したりといったグローバルな経験がなく、小さな老舗ブランドの文化から抜け出せないからです。」

 なるほどイタリアらしい衰退の仕方である。カルチョの世界でも、これと全く同じことが言えるのではないだろうか。
 ユヴェントスはアニェッリ家、ACミランはベルルスコーニ家、インテルナツィオナーレ・ミラノはモラッティ家、その他多くのクラブがこのように「家族」によって運営されている。その家族が経営する企業がクラブのメインスポンサーとなり、高い独自性を有する。もっとも、敵対関係というものは時に自分の首を締めることに繋がるから、16世紀のイタリア戦争(アルプス山脈以北の巨大諸国家がイタリア半島の支配に乗り出した戦争)の際にヴェネツィア共和国がフランスに対抗するために宿敵ミラノ公国と手を組んだことがあるように、ユヴェントス、ミラン、インテルの3クラブは時として同盟関係を持ち、このクラブの間のトレード移籍が行われるのもよくあることだ。たとえミランのエースがユヴェントスに移籍したからといっても、スタジアムから豚の頭を投げられることもなければ、その選手は心の底からのリスペクトを双方のチームから送られ続ける。これらが、イタリアの風土なのだ。
 しかし、スーツや帽子、靴などの他産業と同じく、良好と敵対とをバランスよく使い分けるご近所付き合いに基づいたイタリア・サッカーの家族的発展は、今は窮地に立たされている。
 家族の枠を飛び越えたグローバルな経営を行う他国のビッグクラブとは経済状況に絶望的な差が開き、レアル・マドリードやバルセロナ、マンチェスター・ユナイテッド、マンチェスター・シティー、チェルシー、パリ・サン・ジェルマンといったチームが100億円規模の支出をも厭わない戦略を立てる一方で、ユヴェントス、インテル、ミランは、ここ5シーズンの間に2000万ユーロを越える買い物は片手で数えられるほどしかしていない。ミランがバロテッリ獲得のために2400万ユーロを叩いたことはあっても、彼らはその移籍金を未だにマンチェスター・シティーに払い続けているのがイタリアの現状であり、これに伴いイタリアのヨーロッパでの存在感も年を追うごとに小さくなっている。

 イタリア・サッカーは700年来続いてきた国家的伝統である家族経営を辞めるべき時なのだろうか。
 2013年、インテルの会長はマッシモ・モラッティから、インドネシアで「インターナショナル・スポーツ・キャピタル」を経営するエリック・トーヒルに交代した。ローマもセンシ家が2011年に経営陣から降り、今ではイタリア系アメリカ人のジェームズ・パロッタが会長職に就いている。家族経営からグローバル経営への方針転換を行ってからまだ交代して1年も経っていないインテルは、今後の成果に期待していくところだが、すでに会長交代から3年半が経つローマは数千万ユーロ級の移籍を次々と実現させている。昨季の彼らの快進撃を見れば、やはり家族経営は時代遅れの遺物と思わざるをえないところがある。

 だが、アモーレ(愛)に溢れたイタリア流家族経営は、それはそれでセリエAの大きな魅力の一つである。ユヴェントスやミランも家族経営をやめて、アメリカの有名大学を卒業した天才実業家グループの指揮の下で莫大な放映権収入と共に新しい道を歩み始めれば、あっという間にチャンピオンズリーグの上位を独占することができるかもしれないが、それは「イタリアの復権」を意味するわけではない。
 先ほど引用した記事は、最後、次のように締めている。
「自社の得意な部分を活かして確実なプロジェクトを立て、それに投資する有機も必要です。メイド・イン・イタリーはもはや一部の特別なものではなく、世界的に通用する一大産業なのですから」

 度々このブログでも挙げていることだが、イタリアの戦術は守備に限らず、あらゆる物がその後各国のチームに模倣・再現されている。2014年ワールド・カップを賑わせた5バックの布陣も、ユヴェントスやウディネーゼ、ジェノア、インテルといったクラブがここ数シーズンでチャレンジしてきたものの一つであり、またイタリアの戦術を導入するためにイタリア人監督が各地に招聘されていることこそが、メイド・イン・イタリーのサッカーが決して色褪せていないことの証左となり得るだろう。
 要するに私は、金で見繕ったクラブに、アモーレで作られたイタリアのクラブが勝利する姿を見たいのである。

2014年7月20日日曜日

ネドヴェドのインタビュー「コンテ辞任とアッレグリについて。スアレス噛み付き事件で彼が取った行動とは」

Tuttosportにネドヴェドのインタビューが掲載された。19日に「コンテ退任の真相」として一部が紹介されたものの続きである。

「アントニオ(・コンテ)は、チームとの確執ではなく、監督を続ける意欲が無くなったから辞任をした。すでに5月には辞任の意向を私たち幹部に告げていたんだけど、話し合いをしてバカンスの間にもう一度考えることになった。だが戻ってきた時も、彼の決意は変わっていなかった。
メディアで言われていることは何一つ正しくない。彼は単純に疲れていただけなんだ。昨シーズンの終わりにそう言っていたとはいえ、それでも彼の決断に私たちは驚いたよ。だけど、メルカートの戦略は何一つ変わらない。つまり、私たちはチームに重要な選手を一人も売るつもりはない。」

これに加えてTuttosportに20日に掲載されたインタビューは以下のとおり。
「私は彼の決断の内実をキチンと理解している。ユヴェントスにおける監督業を辞めた時、彼は疲れ果てていた。そこには、彼はどんなことも怠けようとしなかったという理由がある。家でビデオを見ながら研究をすることや、選手たちに何をして欲しいかを説明すること、スタッフに会うこと、全てを彼は一生懸命にやった。この完璧主義が3シーズンの時を経て、彼の大きな疲労に繋がっていった。
私たちにとって、コンテの辞任は大きな損失だ。コンテは偉大な監督であり、彼のやってきたことを私たちは賞賛している。彼が素晴らしい仕事をしてきたからこそ、私たちは彼がいなくなってとてもさみしく感じている。
ワールド・カップの間、全てのチームがその後の事(新シーズンに向けたメルカート)の準備をしていた。だから、コンテが辞任をしたとき、多くの人がその原因をメルカートの失敗だと言ったのだろう。だが、私たちの計画は最初からずっと明白だ。それは全ての優秀な選手を残留させるということ。もちろんヴィダルとポグバはここに含まれている。
ただし、大きな移籍話が来た時はそれについて考えないといけない。それが私たちの仕事である。けど、最初から彼らを売るつもりはない。私たちはチャンピオンズ・リーグで勝ち上がろうとしているわけだから、私たちの計画に無い選手しか放出はできないんだ。」

アッレグリについて
「私たちはコンテの辞任の後にすぐに行動に出た。厳しいことだけど、コンテがいなくなったことが大きな損失だからこそ、私たちはアッレグリのような優秀な監督を一刻も早くトリノに連れてこなくてはならなかった。短い時間に監督を見つけることは簡単なことではなかった。
私たちには二人の候補がいた。アッレグリとマンチーニだ。マンチーニはイタリア代表の監督になるという話があったから、私たちはアッレグリと合意をした。彼は素晴らしい戦術的知識を持っており、勝者である。」

キエッリーニについて
「最初、キエッリーニがスアレスに噛まれた事に対してまるで子供のように振る舞った時、私はそれを見て気分が悪くなった。私はマロッタに聞いてから、すぐにキエッリーニと直接話をしたよ。しかし、ジョルジョはあの後にすぐに反省したみたいで、FIFAにスアレスの罰則期間を短くするように願い出ていた。キエッリーニはこのように知的で素晴らしい選手だが、スアレスもまた、偉大な選手だよ。できることならすぐにユヴェントスに連れてきたいね。実際に2年前に私たちは彼を獲得しようとしていたけど、私もそれには乗り気だった。彼は偉大な選手である。それで充分だ。」

2014年7月16日水曜日

アッレグリとピルロの確執についての誤解

   コンテ監督の電撃的な退任から間も無く、ユヴェントスの新監督が誰になるかが話題になっている。マンチーニ、スパレッティ、さらにはジネディーヌ・ジダンまでもが候補に上がる中で、最右翼は元ACミラン監督のマッシミリアーノ・アッレグリだ。2011年にミランをイタリア・チャンピオンへと導いた彼の手腕に疑いの余地は無い。しかし、ユヴェントス・ファンには一つの懸念材料がある。

   2011年の初夏、ACミランには優勝の歓喜と共に、途方もない失望が訪れた。クラブの象徴であるアンドレア・ピルロの退団だ。2010-2011シーズン、度重なる怪我によって悩まされた彼は6月の契約満了をもって、ライヴァル・チームのユヴェントスへ移籍した。
   そこには二つの理由があった。一つは、ミランの経営方針に対する違和感だ。ミランは、30代のベテラン選手とは1年ずつの契約延長しか基本的にはしない方針を持っている。当時はピルロだけでなく、ネスタやガットゥーゾ、インザーギ等の選手も来季の契約を持っていなかった。将来的な安定を望むピルロはミランに対して3年契約の締結を打診したが、断られ、一方で32歳の彼に3年契約を持ちかけたユーヴェへと移籍を決めた。2014年6月にユーヴェでの契約を終えることになっていた彼は、ユーヴェからの2年の契約延長の申し出を受け入れたが、ユーヴェのこの方針が彼には合っていたのである。
   ピルロがミラン退団を決めたもう一つの理由は、アッレグリ監督だ。アッレグリ監督の戦術は、ピルロが最も愛するポジションに、ピルロのような司令塔ではなく、アンブロジーニやファン・ボメルのような潰し屋を起用する。今年1月まで率いていたチームでは、デ・ヨングをこのポジションに配した。怪我が明けても、ピルロは「中盤の底」ではなく、現在のユヴェントスで言えばヴィダルやポグバがプレイするポジション、インサイドハーフで起用されることが多かったが、これに彼は不満を持ったようである。

    要するに、アッレグリ新監督の就任に対してユヴェントス・ファンが持つ懸念材料とは、アッレグリとピルロの「不仲」なのだ。
   しかし、ここには一つの誤解があるように思える。アッレグリは決してピルロを低く評価しているわけではないのだ。ピルロ自身もインタビューで言っている事だが、アッレグリはとにかく勝利に拘る監督であり、その目標の実現の為に、他の数多のイタリア人監督と同様に、まずは守備を重視する。失点をしなければ負ける事は無いという信条を強く持っているからこそ、守備の要となる「バイタル・エリア」にピルロのような、守備を不得意とする選手を配する事を、彼は好まないのだ。だが、同時に彼には、点を取らなければ試合に勝てない事もよく知っている。そして、守備を徹底しながらも点を取るために必要なのが、ピルロのような「レジスタ」であり、彼はピルロを守備の負担が軽くて済むポジションへ持っていった。
   アッレグリとピルロの旅が終わって3年が経ち、世界のレジスタは皆、アッレグリがピルロに望んだポジションであるインサイドハーフでプレイしている。ピルロの後釜としてミランへやって来たアクィラーニやモントリーヴォも、このポジションで活躍してきた。加えて、ジダンやカカーのようにトップ下としてプレイすることが難しくなった2010年代のサッカーにおいては、エジルやオスカル、スナイデル、メッシといった選手すらも、後方のインサイドハーフの領域でパスを受けて、ゲームを作り出そうとしているが、今年のワールド・カップを思い出して頂ければ、この風潮が分かるかと思う。

   アッレグリは00年代に司令塔の革命を起こしたピルロに、2010年に再びサッカー界の未来を託そうとした。そして、2014年のワールド・カップ。ピルロは出場した3試合のうちの2試合で、かつてアッレグリの望んだポジションでプレイをし、自身のアイデンティティを微塵も遜色することなく、最大限の貢献を果たした。
   23歳で革命を起こした彼が、サッカー選手としては晩年の35歳で再び革命を起こすかもしれない。ピルロの後継者であるヴェッラッティは、いち早くことインサイドハーフでプレイをしているが、アッレグリ体制の新生ユヴェントスで「インサイドハーフのレジスタ」の振る舞い方というものを後輩たちに教える機会が今、彼の目の前にある。何よりも、ベテランもベテランという年齢に達してから、新しいサッカーを始める選手というのは何とも粋ではないだろうか。

2014年7月14日月曜日

ヴィダルの問題のコメントが大胆に誤訳誤解されている可能性

 ユヴェントスのMFアルトゥーロ・ヴィダルは、4000万ユーロ以上の多額の移籍金と引き換えにマンチェスター・ユナイテッドへ移籍するのではと噂されている。英国発信のこれらの噂に対してイタリア各紙は、「何のコンタクトも無い」「噂の域を出ない」と否定的な態度を貫くが、このほど、ヴィダルのコメントが彼の母国チリのニュース・メディアLa Terceraによって報道された。

 このコメントを、とある英国メディアが以下のように翻訳して、記事を作った。
Yes, I heard these rumours, but I don’t want to talk about it. For the moment I am just enjoying my vacation, then when I return to Italy we’ll see. Manchester United? I am relaxed, but of course who wouldn’t be pleased with interest from one of the best clubs in the world?”
ああ、噂については聞いているよ。けど、これについては僕は話したくない。今、僕はバカンスを楽しんでいるから、イタリアに戻ってから状況を見たい。マンチェスター・ユナイテッド?僕は今落ち着いているけど、一体誰が世界最高のクラブの一つからの関心に喜ばないんだ?

 このコメントがTwitterなどで拡散され、ヴィダルが移籍を示唆しているのではないかと議論されている。一日のインターバルを置いて、日本でもこの英文記事が和訳された形で広がった。本当にヴィダルは移籍をしたいのであろうか?イタリア・メディアはこの記事が出た直後に、またもユヴェントスとマンチェスター・ユナイテッドとの間にヴィダル移籍に向けた接触が何も無いことを報道したのだが。

 では、ここで原文を読んでみたい。
Vidal se encuentra de vacaciones en Chile y este sábado se refirió a la posibilidad de dejar Juventus y confesó que "he escuchado los rumores, pero no he hablado más del tema. Estoy disfrutando las vacaciones y cuando vuelva a Italia veré que pasa. Estoy muy tranquilo y a todos nos gustaría estar en uno de los mejores equipos del mundo". 

 私はスペイン語を勉強したことが無いので正確な翻訳はできないが、その兄弟言語であるイタリア語と母言語であるラテン語の知識を踏まえて、これの最後の一文を解釈してみる。
私は今落ち着いている。そして、すべての人が世界最高のクラブの一つにいたいと思うだろう。

 調べた所、 太字で表したestarという言葉は、イタリア語sono/essere、ラテン語sum/est、英語のbe動詞にあたる言葉である。中学校で習った英語を思い出していただければよいが、be動詞の意味は「いる・ある・である」が基本であり、"I have been to Tokyo twice." などの一部の場合に限っては、「行く」と解釈される。
 ラテン語やイタリア語で、sonoやsumが「行く」と解釈されることは英語と同様に稀であり、おそらくはスペイン語でもそうだろう。
 加えて言えば、英語でbe動詞を「行く」と解釈する場合は、方向や進路を表す前置詞toが後続しなくてはならないが、今回の言葉でestarの後ろにあるenという前置詞は英語inとほぼ同義で、要するに「~に、~の中に」といった、既存の場所にそのまま存在し続けることを意味する言葉である。

 これらを考慮して、最後の一文を完全に単語を置き換える形で英訳した場合は、
(I) am very quiet/relaxed and all of players will/would be in one of the best teams.
とするのが適切であろう。


 イタリア・メディアでは、このヴィダルのコメントの当該部分を以下のように訳している。
Sono molto tranquillo e a tutti piacerebbe stare in una delle migliori squadre del mondo.
私は今とても落ち着いており、全ての選手は世界最高のチームの一つに残りたいと思うだろう。 

 スペイン語もイタリア語も全く読めない人でもお分かり頂けると思うが、スペイン語によって話されたヴィダルのコメントの最終文とイタリア語のこの文章は、さすがは兄妹言語であり、tranquiloとtranquillo、a todosとa tutti等、非常によく似ている語が同じ箇所で使われている。
 逐語訳がされたこのイタリア語訳文の中で唯一、例外がstareだ。一人称複数(私たち)に対応したessere動詞(be動詞)のsiamoや、三人称複数(彼ら)のsono、スペイン語の場合でもそうであるが仮定法的用法としての原型essereではなく、英語のstayと同義のstareをここで使っている。stareの意味が「(その場所に)とどまる、残る」であることを考えれば、イタリア・メディアはヴィダルのコメントを「私は世界最高のチーム(ユヴェントス)に残りたい」と解釈して報じているのだ。

 ヴィダルの言う「世界最高のクラブの一つ」がユヴェントスなのか、マンチェスター・ユナイテッドなのか、どちらにせよ彼は差し障りの無いように、曖昧な言い回しでインタビュアーの質問に答えた事には違いない。だからこそ、マンチェスター・ユナイテッドへの移籍に前向きであると捉えるのは、あまりに強引ではないかと私は思う。


【補足】ヴィダルのインタビューの最終文を「仮定法」と解釈した場合
 estarが原形動詞であるため、この文が仮定法であると解釈することは正しいと思われる。しかし、注意しなくてはならないのが、主語が「私」ではなく「全ての選手」となっていることだ。
 主語が「私」であるならば、「現在平凡なチームであるユヴェントスの所属している私が、もしもマンチェスター・ユナイテッドのような世界最高クラブの一員になれたら最高だ」という意味合いになるだろう。しかし、今回の主語は「全ての選手」だ。つまり、「一介のサッカー選手であれば、ユヴェントス/マンチェスター・ユナイテッドのような世界最高のクラブの一員になることを望んでおり、私は今満足している/マンチェスター・ユナイテッドに行きたい」の両方の解釈が取れるのだ。
 文学作品でも芸術作品でもないので、このような文法的解釈の検討は恐らく意味をなさないのだろうが、兎にも角にも、ヴィダルのコメントをマンチェスター・ユナイテッドへの移籍の示唆と捉えるのはあまりにも早計なのである。

2014年7月6日日曜日

セリエA新シーズンの注目の若手選手アンドレア・べロッティ

 毎シーズン、「期待の若手」と呼ばれる選手がいる。昨シーズンはサッスオーロのドメニコ・ベラルディとアレッサンドロ・フロレンツィなどになるのだろうか。その期待に応えられた選手はさらなるビッグクラブへ移籍し、トップ代表に招集されるなど、スター選手へと一歩一歩近づいていく。3年前、セリエBで得点王になったインモービレはワールド・カップのメンバーに選出され2試合に出場、今年6月にはドイツの強豪ボルシア・ドルトムントへ1900万ユーロで移籍した。

 2014-2015シーズンの「期待の若手」は誰であるか。
 エラス・ヴェローナから3000万ユーロ前後の高額な移籍金でユヴェントスないしはACミランに移籍するであろうフアン・マヌエル・イトゥルベはその筆頭となる。ACミランとプロ契約を結んだ16歳のFWマストゥールも、定期的に試合に出られるかはまだ分からないが期待してみたい。ACミランで言えば、MFのクリスタンテとサポナーラも注目の選手だ。またユヴェントスが2年前、ブッフォンの後継者として獲得したGKニコラ・レアーリが今シーズン、満を持してセリエAに初挑戦する。先を越された同年代のバルディやペリンに劣らない活躍をできるのか、目を離すことができない。
 そんな中でも私が特に興味関心を持っているのが、パレルモのFWアンドレア・べロッティだ。

 先に言うと、私はまだ彼のプレイを見たことがない。ここに書くこと以外、彼のことは何も知らない。だからこそ、彼のことが気になる。早く彼のプレイを見てみたいという、そんな気持ちを抱いている。
 彼を知ったのは、U21イタリア代表のメンバーを見ていたときだ。インモービレ、デストロ、ボリーニ、ガッビアディーニを輩出した次の世代の選手について知りたいと思い、調べていた。20歳前後の選手が集まっているこの世代の代表には、ベラルディを除けば、すでにセリエAで大活躍をしているような選手がいるわけではない。ただし、大半の選手はビッグクラブに所属している。ユヴェントス、インテル、ミラン、ローマを筆頭に、下部組織やレンタル移籍など何らかの形で彼らにツバが付いている。しかし、その中でもこのベロッティは異質である。
 この観点から、まずは彼の経歴について見てみたい。ベルガモ州ロンバルディ地方に生まれた彼の本格的なキャリアは、その地で二番目の大きなクラブであるアルビノレッフェで始まった。なおこの地方の最大のクラブは、優秀な若手を多く輩出することで有名なアタランタになる。
 2012年3月にプロデビューを果たし、その後は途中出場で定期的にプレイをした。翌2012-2013シーズンはチームのエースへと成長し、レガ・プロ・プリマ・ディヴィジョン、俗に言うセリエC1で14ゴールを取った。この活躍によっていくつかのクラブから関心を集めた彼は、2013-2014シーズンはパレルモへレンタル移籍をした。その前シーズンをセリエAで戦っていたパレルモでは最初はポジションを掴めずにいたが、9月24日に元ミランのMFディ・ジェンナーロに代わり途中出場すると、早速その試合でアシストを記録し、その後は半ばスタメンとなって24試合10ゴールの働きをした。今季2014-2015シーズンからセリエAに復帰するパレルモは、レンタル移籍だった彼を7月からチームへ完全移籍させ、彼と共に新しいシーズンを戦うことに決めた。
 これらの活躍が評価され、各世代のイタリア代表にも招集されている彼だが、現在のU21では4-2-3-1の布陣の下で1トップでプレイしている。

 続いて、彼のプレイ・スタイルについて見て行きたい。今までのことも含めてこれまでは主にWikipediaを参考に見てきたが、まだ芽が出ていない若い選手には日本語版のページなど存在せず、英語版でも上記のような少しの経歴しか載っていない。しかし、イタリア語版のベロッティのページには、その期待がよく分かるほどに紹介されているのだ。
彼はセカンドトップを始めとし、前線のあらゆるポジションでプレイができるFWだ。ベロッティがユース世代でプレイしたアルビノレッフェのテクニカル・コーチ、エミリアーノ・モンドニコは彼について次のように語っている。「最高の選手だ。一目見て、彼の才能に気付いた。パワーもあれば、プレイの質も高い。古典的なストライカーがそうであるように、彼はゴール前でこそ上手く、賢く動くことができる。そう考えると彼はストライカーとしての性格が強いのかもしれないが、彼はウィンガーでもセカンドトップでもプレイができる。その理由は、先に挙げたようなゴール前での巧さに加えて、常にゴールを狙う姿勢にあるのだろう。」それから、U20イタリア代表の監督アルベリゴ・エヴァーニは「彼には二つの仕事ができる。つまり、攻撃での仕事に加えて、チームの最初のDFとして大きな貢献をしてくれるんだ。」と彼を評価した。
以上のWikipediaの紹介を見ると、彼にはFWとしての能力が高いのに加えて、 守備面での貢献度が高いのがよく分かる。アルビノレッフェのモンドニコは「古典的なストライカー」と評したが、この守備面での貢献度を考えるとそうとは言えないかもしれない。



 そしてコリエレ・デッロ・スポルトにちょうど今日、パレルモへの正式な入団に際しての彼のインタビューが掲載された。
私が望んでいたのは自分が重要な役割を担える強いチームであり、パレルモはそれにピッタリだ。今の私には試合に出ることが大事だ。
幼少期のこと
子供の頃からずっとボールを追いかけて育ってきた。学校から帰ればすぐにリュックサックを背負って、サッカーをしに出かけた。ご飯を食べに家に帰ったら、またサッカーをしに行った。試合も沢山見てきた。勉強もちゃんとしたよ。サッカーはいつまでもできるものじゃないと父に言われてきたからね。父は正しかったと思う。サッカー選手を夢見る少年に言いたいこと?自分を信じて、努力をし続けることだね。
僕はアルビノレッフェでキャリアをスタートさせた。アタランタの入団テストには落ちてしまってね。だからこそ父は僕に「お前は今、幸運な立場にいるんだ。お前のようにチャンスに巡りあうことができずに夢を諦めた多くの人がいることを忘れるな。」と言ってくれる。僕はそれを心に留めておくようにしている。ここに来るまでに沢山のつらい思いをした。父がいなければ、僕は今ここにいないだろう。友達が遊んでいる間、僕はキツい練習ををしていたし、泣いたこともあった。それでも家に帰ると父が僕を励ましてくれた。家で食べるシーフードラザニアが美味しかったな。それを一緒に食べていた兄は、今はシェフをやっているよ。もちろん彼もサッカーは大好きだ。
パレルモでの暮らしについて
今はパレルモに住んでいる。故郷のベルガモに比べると、パレルモが危ない街であることは確かだ。でも、ここに住んでいる人たちは素晴らしいよ。僕は今、楽しいんだ。ファンの人たちも面白いね。階段を降りたところで、ファンの人たちが僕の活躍を褒めてくれたりする。それに、実は僕はここで一度もコーヒーにお金を払ったことはないんだ。ベルガモではそうはいかない。両親に「ここにはマフィアがいるんだよ」と冗談で言ったら彼らはすごく心配してしまった。でも、一度来たらそんな心配はいらないことに気付いたと思う。南イタリアは本当に良い所だよ。
20歳でどう一人暮らしをしているか?僕にとっては初めての一人暮らしだけど、洗濯も料理も自分でしているよ。料理については兄にアドバイスをもらっているから、だいぶ上手くなったね。最初の頃は困ることもたくさんあって、両親が助けに来てくれたこともあった。休みの日はテレビゲームをしたり、映画を観たりしている。僕はシャイな人間だから、ずっと家にいるほうが性に合っているんだ。好きな映画や本?映画はアクションとコメディーが好きだね。本は最近はあまり読まないんだ。でもサッカー選手の伝記は好き。特にお気に入りなのがイブラヒモヴィッチとサネッティの本だ。
サッカー選手として
インモービレ、ヴェッラッティ、インシーニェを目標にしたい。彼らは皆、セリエBからトップレベルの選手へと成長した。僕も彼らの後を追わないといけない。僕のアイドル?それはシェフチェンコだ。彼は偉大なストライカーであると同時に、人間としても尊敬できる。
昨年の怪我について?あれは辛かった。でもチームの人たちが支えてくれたよ。イアキーニ監督が僕に電話で、僕をずっと待つと言ってくれたときは嬉しかった。そのお陰でリスクを冒すことなく全快に向けて治療することができた。
僕のプレイがカシラギに似ている?シュートが好きということでは似ているかもしれないけど、それは誰しもが持っている特徴だ。僕は自分が彼に似ているとも思わないし、他の誰かの真似をしようとも思っていない。そうすることが僕にとって良いことだと思っているから。だからこそ、僕は色んなポジションでプレイがしたい。もちろん、子供の頃から攻撃的なポジションが大好きだったけど。
感謝をしたい人と新しいシーズンに向けて
アルビノレッフェでの経験は素晴らしいものだった。今でもベルガモの友達と話したりするためにFacebookを使うし、Twitterでも彼らのことをフォローしているよ。なによりもモンドニコ監督には感謝しないといけない。彼は僕のことをずっと信じてくれた。
僕を評価してくれたパレルモにも感謝したい。お金もかかるし、僕のような選手を獲得するのは大変な仕事だったと思う。でもこのような重要なチームで僕は上手くプレイすることができた。これから僕はセリエAに挑戦する。楽しみで仕方がない。
今はものすごく熱意に溢れている。早く試合をして、セリエAでも良いプレイができることを示したい。パレルモは最高のチームだ。ここには選手だけじゃなくて、「人間」がいる。試合に勝つために重要なのは選手が良い働きをすることだけではない。ベンチからのサポートも欠かせないんだ。だからこそ、このチームは最高だ。

 サッカー選手特有の野心家としての面と、家族とベルガモの風土が生んだであろう謙虚な一面が、彼の言葉から垣間見える。彼はイタリアの超新星となりうるのだろうか。2016年のリオ五輪に向けて調整が始まる中、2014-2015シーズンはこの20歳のFWの活躍に期待してみたい。