2015年3月24日火曜日

イタリアサッカー史上最大のスキャンダルが幻になる日

 「全盛期」という言葉は一般的に肯定的な意味を持って使われることが多いが、一方でこれには「凋落が始まった時」の意味が含まれているのを忘れてはいけない。全盛期と評される人や国の周りに目を背けたくなるほどの腐敗が蔓延しているのはどの時代・場所にも通ずることであり、後の衰退が必然的なものであったことを歴史は常に証明してきた。
 イタリア・サッカーの全盛期は間違いなく2000年代の前半にあった。2003年にはチャンピオンズ・リーグ決勝でミラノとトリノの巨人が相まみえ、世界中の人たちがイタリアでサッカーをすることを夢に見ていた。そして2006年、ドイツで行われたワールド・カップをイタリア代表が制しイタリア・サッカーがその栄華の絶頂を極めた直後、栄光の象徴であったユヴェントスFCの崩壊が不可避のものとなった。


カルチョーポリとは

 「サッカーcalcio」と「政治的癒着tangentopoli」を組み合わせた造語カルチョーポリCalciopoliの名前で知られるイタリア・サッカー史上最大のスキャンダル、この事件が明るみに出るキッカケは全く異なる場所にあった。ユヴェントスの元チームドクターであったリッカルド・アグリコラ氏が90年代半ばにドーピング違反に関与していたのではないかと疑われたのが事の発端である。この事件の操作が始まった折に、ドーピング以外にもユヴェントス幹部が不正を働いていたのではないかという疑惑が浮上した。次の六項目がその疑惑の具体的な内容であり、これが現在、広義の「カルチョーポリ」に含まれる。
  1. セリエAとチャンピオンズ・リーグにおける審判の斡旋
  2. ナショナルチーム監督に対し特定の選手の代表招集を依頼
  3. 審判をロッカールームに監禁
  4. ヴァチカン銀行への裏預金
  5. ユヴェントスの選手たちのドーピングテストを免除する裏工作
  6. TV番組プロデューサーに対しリプレイ動画の編集を依頼

 なお、「八百長事件」と呼ばれていることから多くの人が「ユヴェントス(モッジ)が審判を買収した事件」とカルチョーポリを認識しているようであるが、それは少し誤解をしている。確かにモッジがとある特定の審判に高級車を贈ったことが話された電話の録音記録も残っているが、2006年当時の情報から正しく説明するに、カルチョーポリとは「ユヴェントス(モッジ)が自分好みの審判を斡旋した事件」であることを最初に明らかにしておきたい。また、「広義のカルチョーポリ」とは対称的に、上記の1に該当するこの審判斡旋行為を「狭義のカルチョーポリ」としてここでは定義する。一般的に「カルチョーポリ」として議論されるのはこちらの狭義の方である。
 そしてもう一つ、審判の選出に口出しをすることは当時は違反行為ではなく、どのチームも同様の事を行っていたことも声を大にして言っておかなくてはならない。モッジにかけられた疑惑は、"あまりにも過剰に"審判と親密な関係にあったこと、なのである。

 国内三大スポーツ紙の一つガゼッタ・デッロ・スポルトは、これら一連の事件が噂され始めるや否や、疑惑を確信に変える記事を次々と世に送った。このガゼッタ・デッロ・スポルト、手段を選ばない取材においては他の追随を許さない。最近で言えば2014年のワールド・カップ、イタリア代表の非公開練習を上空からヘリコプターで撮影し、背水の陣に挑むチームの秘策を全世界に暴露した。
 2006年のガゼッタは、ユヴェントス最高幹部ルチアーノ・モッジとアントニオ・ジラウドの電話を盗聴しその録音記録を文字に起こし公開、この二人がイタリア・サッカー協会関係者に圧力をかけ審判の選出を操作していたことを報道した。
 2005-2006シーズンが終了後にこの両名は辞任、審判選出の不正操作に関与したとされる協会幹部も次々と表舞台から姿を消し、ワールド・カップと並行して調査・略式裁判が行われた。三つの裁判を経て、ユヴェントス、ACミラン、フィオレンティーナ、ラツィオ、レッジーナに対し、新シーズンにおける勝ち点の剥奪などの様々な処分が下された。中でも最も重罪となったのは、事件の主犯であったモッジを擁するユヴェントス、唯一彼らに下部リーグへの降格が言い渡された他、過去二シーズン分の優勝の取り消しが決まった。


カルチョーポリがユヴェントスに与えた影響
 2006年当時、ユヴェントスは世界有数のスター軍団であった。ライバルチームのエースを高額な移籍金を持ってチームに招聘する様はビッグクラブそのものであり、イタリアのみならず世界中にそのプレゼンスを発揮していた。ユヴェントスの白黒 bianconero のユニフォームに袖を通すことはサッカー選手にとっての最高のステータスであった。
 しかし、二部リーグに降格したユヴェントスはその全てを失った。スター選手たちはユヴェントスを離れることを望み、一方でユヴェントス自身も降格したことによる広告スポンサー料や賞金の大幅な減少から彼らの給料を支払うことが難しくなった。世界最高のサッカー選手に贈られる称号「バロンドール」を後に獲得するファビオ・カンナヴァーロを始め、パトリック・ヴィエラ、エメルソン、ジャンルーカ・ザンブロッタ、そしてズラタン・イブラヒモビッチらがチームを去っていった。
 その後のユヴェントスは、残留することを望んだ主将アレッサンドロ・デル・ピエーロやパヴェル・ネドヴェド、ジャルイージ・ブッフォンらの尽力もあり一年でセリエAに復帰、その翌年にはチャンピオンズ・リーグにも出場し見事復活を遂げた。
 ように思えたのも束の間、ベテランの域に達したデル・ピエーロらがなかなか活躍できなくなったのを境に、付け焼き刃的なクラブ経営が裏目に出て低迷し、再び国際的なプレゼンスとステータスを失った。
 経営メンバーの刷新とコンテ監督のサプライズ招聘が奏功し現在ではかつての輝きを取り戻しつつあるユヴェントスだが、9年前の降格によるダメージは甚大である。たらればの議論が何も生まないのを理解した前提で話をするが、もしもカルチョーポリがなければユヴェントスは今頃バルセロナやレアル・マドリード、バイエルン・ミュンヘンと肩を並べ、ヨーロッパの頂点に立っていたかもしれないのだから。



カルチョーポリ裁判の展開

 一般的に西洋由来の裁判は、Presumption of Innocence、いわゆる「推定無罪の原則」「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」という考えを基に進められ、あらゆる人も有罪の立証なしに罰を受けることはない。しかし、今回の一連のカルチョーポリの裁判は一般的な裁判と異なる「スポーツ仲裁裁判」、この推定無罪の原則も適応されていなかった。

スポーツ仲裁裁判とは
 「スポーツのことはスポーツの中で解決する」という目的の下で1984年、国際オリンピック委員会によってスポーツ仲裁裁判所が設立された。イタリアのスポーツ仲裁裁判所はイタリア五輪委員会が運営を行っている。カルチョーポリやサッカーに限らずスポーツ全般に及ぶ様々な案件を扱っており、ユヴェントスは2012年にカルチョーポリとは別件でこの裁判所と一騒動を起こした。
 カルチョーポリの他にもイタリアサッカー界には多くの八百長事件が存在する。2012年には八百長事件に関与した疑いでドメニコ・クリッシートが欧州選手権のイタリア代表からの途中離脱を余儀なくされた「カルチョスコメッセ Calcioscommesse」事件が起きた。
 こちらは「サッカーcalcio」と「賭博scommessa」を合わせた造語でカルチョーポリよりも闇は深い。2000年代半ばから違法賭博グループが組織ぐるみで審判のみならず選手をも買収、かなり直接的に試合を操作していた。現在でも騒動が続いており、クリッシート以外にも元ACミランMFジェンナーロ・ガットゥーゾや現ユヴェントスDFレオナルド・ボヌッチらにも嫌疑がかけられた。最近、耳にするイタリアサッカー絡みの「八百長事件」の大半はこちらのカルチョスコメッセの方だ。
 カルチョスコメッセが明るみに出た当時ユヴェントスを率いていた監督コンテは、前任のシエナ監督時代の2011年に行われたノヴァーラ戦とアルビノレッフェ戦との試合に際し、ドローで試合を終わらせるように指示された、つまり八百長が行われていることを知っていながら「申告義務を怠った」罪でスポーツ仲裁裁判所から10ヶ月の資格停止処分が下された。この裁判においてコンテが八百長の存在を知っていたとする証拠は、嘘か本当かも分からないシエナOB選手の証言しか存在しなかった。しかし、コンテには有罪判決が下されたのだ。ユヴェントスはこれを不服とし、処分の撤回を要請した。のちに10ヶ月が4ヶ月に短縮されたのだが、ユヴェントスは2012-2013シーズンを12月まで、監督不在の状態で戦うことを余儀なくされた。
 なお、上述のボヌッチはこの裁判において「証拠不十分」の無罪判決を獲得している。彼にもコンテ同様に申告不履行の疑いがあったのだが、証言に挙げられた「八百長があることを伝えた日」にナショナルチームの合宿に参加していたことが明らかになり、物理的に八百長に関与することが不可能であることが立証され、無罪となった。つまり、一度起訴されてしまったスポーツ仲裁裁判において無罪を獲得するのは、これほどの偶然が必要であるのだ。

 5年の活動停止処分と罰金が科せられたルチアーノ・モッジの裁判もこのスポーツ仲裁裁判だ。検察側から十分な証拠が提示されていなかったにも関わらず、ユヴェントスとモッジらは重罪を受けた。もちろん、ACミランやラツィオ、フィオレンティーナらも同様にこの裁判の被害者である。ユヴェントスは判決が下された当初からこの裁判のシナリオと結果を不当のものと主張し、刑事裁判の実施を訴えた。


カルチョーポリの新展開
 カルチョーポリが再び動き始めるのは、2007年4月のことである。モッジや審判協会幹部、またいくつかの審判がスイスやリヒテンシュタインで作られたSIMカードを使い秘密裏に何らかの話し合いをしていたのではないかという記事が、イタリア紙リプッブリカによって書かれた。
 これを受けて同年6月、カルチョーポリの中心人物の一人で、当該時期に審判選出業務を行っていたパオロ・ベルガモが、モッジから2枚のSIMカードを送られ、一枚を自分が保有、もう一枚をイタリアサッカー審判協会会長パイレットに渡し、彼とのプライベートなやりとりで使用していたことを明かした。
 先の裁判ではこのSIMカードに関する議論は全くされていなかった。このことからもユヴェントスらに対する制裁が決まった最初の裁判がいかに杜撰なものであったのかを想像できるが、兎にも角にも裁判のやり直しの必要性がこの頃から声高に主張され始めた。


インテルとカルチョーポリ
 同2007年のイタリア紙スタンパの報道で、2006年の裁判に名前が挙がらず、ライバルチームが総じて没落していく中で「一人勝ち」をしたインテルナツィオナーレ・ミラノのカルチョーポリへの関与が疑われた。
 00年代後半は一人勝ちのインテルに対し多方面から疑惑が持ちかけられた。カルチョーポリをここまで大きくさせた新聞紙ガゼッタ・デッロ・スポルトはその本社をミラノに構えており、報道もインテル寄りのスポーツ紙として知られているが、実際にここで役員を務めるカルロ・ブオーラ氏はインテル親会社ピレッリのゼネラル・マネージャーであり、さらにはカルチョーポリにおいて多くの録音電話記録を証拠として提供した会社TIM(テレコム・イタリア)の副社長の職にも就いている。
 2006年、カルチョーポリが発覚したことで辞任したACミラン出身のアンドレア・ガッリアーニに代わり、イタリア・サッカー協会会長に就いたのは、インテル畑のグイド・ロッシであった。グイド・ロッシは就任早々、ユヴェントスのセリエBへの降格を決定し、また同年テレコム・イタリアの社長就任を依頼されこれを快諾した。つまり、今回の一連のカルチョーポリ騒動を大きくしたイタリア・サッカー協会、ガゼッタ・デッロ・スポルト、そしてテレコム・イタリアが全てインテルによって繋がっているのである。
 こうしたことから、インテルであればカルチョーポリへの自身の関与を隠せるのではないか。むしろインテルこそがカルチョーポリの黒幕ではないのだろうか。こうした噂が比較的早い段階から囁かれるようになった。だが、これらはいずれもユヴェントスやACミランといった「負け犬」の遠吠えに過ぎなかった。

 しかし2010年頃から、インテルのカルチョーポリへの関与の噂が現実味を帯びてくる。2011年、イタリア・サッカー協会カルチョーポリ調査部長及びイタリア連邦検察官ステファノ・パラッツィによる調査報告が行われた。ここでは、当時インテル会長モラッティがスポーツ法第一条(スポーツマンシップとそのモラルに関するルール)違反で、同幹部ファッケッティが第六条(八百長に関するルール)違反で名前を挙げられている。
 なお、キエーヴォやカリアリ、リヴォルノなどの会長や幹部もこのリストに名を連ねた一方で、ユヴェントス関係者は誰一人としてここには登場してこない。また、第六条こそが当初のカルチョーポリ議論の争点であったわけだが、ユヴェントスは2006年からの5年に渡る調査によって、第六条に関する自身とモッジ及びジラウドの身の潔白をすでに証明していた。
 この報告が2006年か2007年の時点で行われていれば、おそらくはインテルならびに他のクラブにもユヴェントスやラツィオが受けたのと同様の罰則があったはずだが、時すでに遅し、時効が過ぎていたためインテルらは放免された。


刑事裁判
 インテルのカルチョーポリへの関与が明らかになった2011年、2006年のスポーツ裁判とは一線を画す刑事裁判がナポリ地裁で行われた。調査資料の数も桁違いに増え、モッジが関与していない電話の録音記録までもが証拠として挙げられた。この裁判はモッジに有罪判決を下した。海外SIMカードを使って移籍市場を操作し、息子アレッサンドロ・モッジの経営するサッカー選手代理人会社を不正に利したことが有罪の具体的根拠であった。ここにおいて、審判の斡旋は看過された。要するに、ルチアーノ・モッジは審判の不正操作には関与しておらず、ユヴェントスは正真正銘の無罪であるということが刑事裁判において結論付けられたのである。
 これを受け、ユヴェントスは2006年裁判の結果によって被った上記のような損害の賠償を求め、イタリアサッカー協会に対し4億3000万ユーロの賠償金を請求する民事裁判を始めている。これは現在も係争中の案件だ。
 翌2012年、ナポリで再び刑事裁判が行われ、カルチョーポリに関与し有罪判決を受けていた審判たち全員の無罪が確定した。モッジの有罪がそのままであることから広義のカルチョーポリの存在自体は認めているのだが、モッジが斡旋した審判によって恣意的に試合が動かされたこと、つまり一般的に「カルチョーポリ」と表現されている狭義のカルチョーポリが明白に否定された。



最後に

 2015年3月23日、イタリア最高裁がカルチョーポリの最終判決を下した。
 ユヴェントスFC元ゼネラル・マネージャーのルチアーノ・モッジの「証拠不十分」を根拠とした無罪が確定した。なお、ここで証拠不十分に括弧している理由は言うまでもないだろう。具体的な交渉を含まない電話の盗聴録音記録しか法廷に持ち込まれなかったカルチョーポリ裁判は、その最も始めの段階からすでに証拠不十分であった。推定無罪の原則に則っていればユヴェントスはセリエBに降格されることはおろか、勝ち点を剥奪させられることすらなかったのだ。
 2006年からのこの9年の間に、当初有罪とされていた人たち、ほぼ全員の無罪が確定した。イタリア・サッカー史上最大のスキャンダルが、今、幻のものになろうとしているのだ。一体、誰が、なんのためにこの幻想を作り上げたのであろうか。民事裁判がまだ終わっていない以上、この幻想はこれからもイタリアサッカー界を彷徨うことだろう。数年後、4億3000万ユーロの賠償金を獲得したユヴェントスがカルチョーポリから最大の利益を得たクラブになっていればこれ以上の皮肉はないが、現在そのクラブを指揮する監督マッシミリアーノ・アッレグリ自身が「サッカーは演劇(ショー、spettacolo)に過ぎない」という信念を持っているのがまた面白い。
 カルチョーポリは、カルチョの歴史を描いたスペッタコーロの一幕なのではないだろうか。ユヴェントスは今、無敵の強さでセリエA四連覇に王手をかけているところだ。

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