2014年8月25日月曜日

イタリアの家族経営の伝統とカルチョ

 イタリアの産業には「家族」が存在する。地中海の中心に位置するイタリア半島は、ラグーナやアルプス山脈という天然の要塞と古代ローマの遺産を背景に中世の時代に西洋最大の商業都市となっていたが、その頃の、弟が船に乗ってギリシア・エジプト・アジアの産品を持ち帰り、家で留守番をする兄がその産品を売り利益を生み出す形態が、後のメディチ家に発展していった。彼らの商売は徹底的な家族経営によって成り立っていた。家族という最も信頼の置ける人を身内に固め、他の家族と取引をするのがイタリアの伝統的な生き方だ。一方でオランダを始め、イギリスやフランス、そしてアメリカでは、近代に入り、国家という絶対的なバックアップを持って、家族を超えたグローバルな経営を実現させていった。
 イタリアの家族経営は現在でも色濃く残っている。イタリアのあらゆる産業の核は未だに家族のままである。
 
 以前、私はフィレンツェの服飾業界の記事を読んだ。
 (変貌するイタリアのファッション勢力図
 フィレンツェは、ミラノ・コレクションと並ぶピッティ・イマジーネ・ウォモというファッション展が年に2回開かれるほどの大ファッション都市だ。最新のトレンドを生み出すミラノ・コレクションとは対称的に、このピッティは時代に流されないクラシックな伝統を重んじるファッションに定評があり、そこで作られる服は熟練職人の手作り、車が買えるような値段のスーツも珍しくない。この職人の技術は親から子へと受け継がれ、余所者がそこに入ることは自分の家族を捨てて彼らの家族に加わることを意味し、簡単なものではない。そうして、規模は小さいながらも質の高い品物を生み出す産業がイタリアでは多分野において数百年に渡り継承されてきた。
 しかし、この産業は今や斜陽の時期を迎えている。大量消費・大量生産の時代にあって、彼らはユニクロやH&Mに押されており、顧客であった高級階層すらもルイ・ヴィトンやアルフレッド・ダンヒルなどに流れている。一着のスーツを作るのに半年の時間をかけて、胸囲や足の長さだけでなく性格や趣味・趣向をも採寸するイタリア産業はマニア向けのものとしか見なされなくなってしまったのだ(もちろん、その中でもアルマーニやドルチェ&ガッバーナのように高級ブランドとして成功を収めた例もたくさんあるが)。
 私が読んだその記事には、以下のような記述がある。
「イタリアの問題はファミリーです。創業者が素晴らしいブランドを作ってもその後成長しないのは、企業を継ぐ2代目以後がほかの企業で修行を積んだり、海外で勉強したりといったグローバルな経験がなく、小さな老舗ブランドの文化から抜け出せないからです。」

 なるほどイタリアらしい衰退の仕方である。カルチョの世界でも、これと全く同じことが言えるのではないだろうか。
 ユヴェントスはアニェッリ家、ACミランはベルルスコーニ家、インテルナツィオナーレ・ミラノはモラッティ家、その他多くのクラブがこのように「家族」によって運営されている。その家族が経営する企業がクラブのメインスポンサーとなり、高い独自性を有する。もっとも、敵対関係というものは時に自分の首を締めることに繋がるから、16世紀のイタリア戦争(アルプス山脈以北の巨大諸国家がイタリア半島の支配に乗り出した戦争)の際にヴェネツィア共和国がフランスに対抗するために宿敵ミラノ公国と手を組んだことがあるように、ユヴェントス、ミラン、インテルの3クラブは時として同盟関係を持ち、このクラブの間のトレード移籍が行われるのもよくあることだ。たとえミランのエースがユヴェントスに移籍したからといっても、スタジアムから豚の頭を投げられることもなければ、その選手は心の底からのリスペクトを双方のチームから送られ続ける。これらが、イタリアの風土なのだ。
 しかし、スーツや帽子、靴などの他産業と同じく、良好と敵対とをバランスよく使い分けるご近所付き合いに基づいたイタリア・サッカーの家族的発展は、今は窮地に立たされている。
 家族の枠を飛び越えたグローバルな経営を行う他国のビッグクラブとは経済状況に絶望的な差が開き、レアル・マドリードやバルセロナ、マンチェスター・ユナイテッド、マンチェスター・シティー、チェルシー、パリ・サン・ジェルマンといったチームが100億円規模の支出をも厭わない戦略を立てる一方で、ユヴェントス、インテル、ミランは、ここ5シーズンの間に2000万ユーロを越える買い物は片手で数えられるほどしかしていない。ミランがバロテッリ獲得のために2400万ユーロを叩いたことはあっても、彼らはその移籍金を未だにマンチェスター・シティーに払い続けているのがイタリアの現状であり、これに伴いイタリアのヨーロッパでの存在感も年を追うごとに小さくなっている。

 イタリア・サッカーは700年来続いてきた国家的伝統である家族経営を辞めるべき時なのだろうか。
 2013年、インテルの会長はマッシモ・モラッティから、インドネシアで「インターナショナル・スポーツ・キャピタル」を経営するエリック・トーヒルに交代した。ローマもセンシ家が2011年に経営陣から降り、今ではイタリア系アメリカ人のジェームズ・パロッタが会長職に就いている。家族経営からグローバル経営への方針転換を行ってからまだ交代して1年も経っていないインテルは、今後の成果に期待していくところだが、すでに会長交代から3年半が経つローマは数千万ユーロ級の移籍を次々と実現させている。昨季の彼らの快進撃を見れば、やはり家族経営は時代遅れの遺物と思わざるをえないところがある。

 だが、アモーレ(愛)に溢れたイタリア流家族経営は、それはそれでセリエAの大きな魅力の一つである。ユヴェントスやミランも家族経営をやめて、アメリカの有名大学を卒業した天才実業家グループの指揮の下で莫大な放映権収入と共に新しい道を歩み始めれば、あっという間にチャンピオンズリーグの上位を独占することができるかもしれないが、それは「イタリアの復権」を意味するわけではない。
 先ほど引用した記事は、最後、次のように締めている。
「自社の得意な部分を活かして確実なプロジェクトを立て、それに投資する有機も必要です。メイド・イン・イタリーはもはや一部の特別なものではなく、世界的に通用する一大産業なのですから」

 度々このブログでも挙げていることだが、イタリアの戦術は守備に限らず、あらゆる物がその後各国のチームに模倣・再現されている。2014年ワールド・カップを賑わせた5バックの布陣も、ユヴェントスやウディネーゼ、ジェノア、インテルといったクラブがここ数シーズンでチャレンジしてきたものの一つであり、またイタリアの戦術を導入するためにイタリア人監督が各地に招聘されていることこそが、メイド・イン・イタリーのサッカーが決して色褪せていないことの証左となり得るだろう。
 要するに私は、金で見繕ったクラブに、アモーレで作られたイタリアのクラブが勝利する姿を見たいのである。